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桶狭間の戦い(1560)以後、岡崎に戻った松平元康は、三河制圧に向けた第一歩を踏み出し、西三河の各地を転戦しはじめました。このため、今川氏との関係は深刻な状況へと悪化し、以後、「三州錯乱」「三州過半の錯乱」などと呼ばれるほど今川・松平間での三河攻防が激しくなりました。西三河を平定し、清洲同盟・妻子奪還を果たした元康はいよいよ東三河に残る強力な今川勢力(吉田・牛久保・田原)の攻略を開始します。
早くも永禄5年(1562)6月には牛久保城をめぐって大規模な戦闘が起こつています。今川勢は吉田城・牛久保城の拠点に加え、佐脇と八幡に砦を構えました。さらに今川氏真自ら兵を率いて駿河から牛久保に着陣し、松平勢の守る一宮砦を大軍で包囲します。これに対し元康は佐脇・八幡の敵勢の間に押し出して、小勢で今川の攻囲を突破し、孤立した本多信俊らの一宮砦を赴接しました。これは家康の武勇談の一つとして「一宮の後詰」「一票の退口」などと呼ばれています。氏真は駿府滞在中の武田信虎に謀反の企てありとする情報で、元康と直接戦うことなく兵を返したといわれます。
この戦闘については、細部で諸書の記述に違いがみられます。時期を永禄5年とし、信虎は駿府に滞在していたとする『松平記』に対して、時期を永禄7年とするもの(『≡河物語い『寛政重修諸家譜(本多信俊)』・『徳川実紀』)や、信虎も今川方の一軍を率いて参戦していたとするもの(『菅沼豪語』・『寛政重修諸家譜(本多信俊)』・『徳川実紀』)などがあります。
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